信じる事はできるから


 交差点を眼下に見下ろす歩道橋を登っていけば、駅を囲むように突っ立っているビルに、デカデカと貼り付いている顔(というか、上半身?)を発見して、王泥喜は大きく息を吐いた。
 途端、一桁の室外温度は『王泥喜の憂鬱』を白い煙に変えてしまう。しっかりとした形を見せられ、王泥喜は眉間に大きく皺を刻んでもう一度溜息を付く。

 今年の流行色はブラキッシュカラー(要するに黒だ、黒)とシルバーやゴールドで、差し色(一体何を差すんだ指か!?)は赤みのピンクや濃い紫だと、ファッション雑誌を片手にみぬきちゃんが教えてくれた。
 その配色通りの人物は、斜に構えた体勢から無理矢理視線をこちらへ向けている。おっとっと…なんて、階段を踏みはずした時に、彼はこんな風に顔を上げるのを知っている。そして、むっと顔を赤らめると『見たな、王泥喜法介』と彼は自分を呼ぶのだ。
 笑ったら泣くぞなんて、脅しになってるのかよくわからない台詞を吐くから、苦笑いをしながら「はい、はい」と言葉を続けるしかない。

 笑ったりしませんから、機嫌を直して下さいね。

 クスリと笑った法介を、通行人達が不審な表情で過ぎていく。牙琉響也の看板を見ながらほくそ笑んでいる男…それは確かに気色が悪いに違いなかった。
 碧い瞳を眇めてゆるく唇を上げた表情は、よく知っているようで法介が余り知らない顔だ。法介が知っているのは、子供っぽく破顔した表情か、艶っぽくていかがわしい顔のどちらかが圧倒的に多いのだ。
 こんな表情を良く見る場所といえば、彼と対峙するあそこ位だ。


 階段を駆け下りて、看板が設置されたビルと反対側にある喫茶店に走り込む。食事の時間も、おやつの時間も微妙にズレているせいか、客は疎らだった。
 店内の暖房で、冷えていた王泥喜の頬は必要以上に色づき、火照る頬に冷たい手を当てキョロキョロと店内を見回せは、あろう事か待ち合わせの相手は、その看板を真正面に見据える窓の席に座りこちらへ手を振っていた。
「…恥ずかしくないんですか? アンタ」
「何が?」
 顎をしゃくって、王泥喜を見上げてくる響也は、髪型を変え伊達眼鏡をしている。服装も常なるそれではなく、ジーンズにセーターとかありふれた格好。尤も品物は良いんだろう。けど、ばあちゃんに言わせれば、あくまでもジーンズは作業着だ。
 響也の様子とテーブルにおかれたカップの珈琲が殆ど減っていない事を確認してから、王泥喜は正面の椅子を引いた。
 座りながら、クリスマス用に飾り付けられた窓を眺め、そこから見えるデカイ看板に視線を送る。思わず視線が合って奇妙な気恥ずかしさに目を反らす。
「自分の顔があんなにでっかく見える場所にいて、恥ずかしくないんですか?」
「あのね、おデコくん。」
 響也は指先で眼鏡のブリッジを掴み下げた。サングラスでは見る仕草だったが、どうやら彼の癖らしいと王泥喜は気付く。そんな事をしなくても、今、響也の瞳は何に遮られるでもなく鮮明に見えるのに。
「あれは『ガリュウ』、僕は『牙琉響也』、全く違うよ」

 俺にはどう見ても一緒ですから。…というか、世間的にも一緒です。

「そういう主観の問題は置いておいてですね…「何で置いておくんだよ」」
 異議ありと言わんばかりの様子でテーブルに拳を振り下ろす。ドン…ではなく、もっと軽い音がして、冷水を持ってきたウエイトレスが、驚いた顔で持ち上げていたカップの所作に困っていた。
「あ、俺にも珈琲お願いします。」
 王泥喜は注文してから、不機嫌な顔の響也に向き直る。

「そんな事より、随分待たせちゃったみたいですみませんでした。」
 え?とあからさまな動揺が響也の顔を彩れば、王泥喜はにっこりと微笑んだ。
「な、何言って…僕は、」
「偽装の上に偽証じゃあ、罪が重くなりますよ?」
 着ていたコートを畳んで、隣の席に置くと仕事用の鞄も邪魔にならないように立て掛ける。響也の差すような視線が少しばかり痛い。
「…どうして、わかったんだい?」
「ひとつは眼鏡です。外の気温と此処は酷い温度差で、時間が経ってないのならフレームが冷えて、レンズが曇っているはずです。」
 先生はそうでしたよと言ってやれば、あっと声を上げた。
「それと、此処から下の道は丸見えですよね。俺の姿を見つけてから、追加注文したんでしょ? 伝票が、ほらね。」
 ぴらと、王泥喜が指先で摘んだそれには、珈琲の数は3と書き直されている。
「根拠はそのふたつ。後はまぁ、ハッタリですけど。」
 後ろ頭を掻きながら笑う王泥喜を、頬杖をつき、拗ねた表情で睨み付ける。 
「だから、あら探しばかりする弁護士は嫌いなんだ。」
 そう吐き捨てると、響也は盛大に溜息をついて肩を竦めた。

 ああ、子供っぽい顔だ。

 あの看板とは違う、響也の顔。この瞬間、見ているのは、世界で俺だけの表情。
そんな風に想うとたまらなくなる。
「いっつもは、おデコくんを待たせてばっかりだから、たまには良い所を見せようと思ったのに…細かい弁護士さんのお陰で台無しだ。」
「それ、俺のせいですか?」
 突き付ける指先を自分の鼻に向けても、あ〜誰だっけねと横を向く。

 見飽きる様な横顔では無かったが、いつも自分に向けられている視線がそっぽを向いているのは寂しい。しょんぼりと垂れてしまった前髪は、響也の目線と機嫌が戻ってくるまではこのままだろう。
 一度機嫌を損ねてしまったら、暫くは戻らないのが響也の性格なのだ。
 王泥貴は早期解決を諦めて置かれている珈琲に手を伸ばす。砂糖やミルクをカップに注ぎ込みながらチラチラと視線を送るも、僕は拗ねているんだぞモードは健在で。
 あ〜あと内心溜息をつきカップを口元に運べば、自分に視線を送る響也に気が付いた。
 先程と変わらず、こちらは自分を見つめている。少々サイズがデカイのは我慢して王泥喜はそちらへ視線を移した。
 サイズがサイズだけに、髪の一筋までもが鮮明に見えるそれは、けれども不思議と生きている人間を写しているという気がしない。看板は勿論生きてはいないけれども、どうにも造り物じみていて現実感に乏しいのだ。理論上、美を感じると計算された部品を組み合わせて創った紛い物のようだ。
 珈琲を飲み込む間も王泥喜は視線を外さなかった。

 …要するに希有な美人って事だよな。こんな人とつき合って、あんな事やこんな事してるんだ、俺。

 そうして、心の中で、アホかとつっこむ。顔が火照ってきて、即物的にも程があるだろうとは思うのだけれど、そこはまだまだ健全な男の子。男に欲情するのが健全かというツッコミはこの際遠慮してもらおう。
 
 グシャという音と共に、王泥喜の意識は妄想の世界から現実へと引き戻された。
音源は響也の手に握られた紙屑…もとい伝票だ。
「え? あれ?」
 気付くとマフラーを片手に響也が背中を向けたところだった。

「帰る」

 落とされた声に、王泥喜も慌てて腰を上げた。残りの珈琲を流し込み、先程脱いだばかりのコートを羽織ると鞄を片手に後を追った。
 王泥喜のことなど見向きもせずに清算を済ませれば、長い脚を前後に動かしてあっと言う間に店を出るて行く。機嫌が直るまで待っている時間に、どうやらヘマをしたらしいと王泥喜は悟った頃には、響也は交差点を歩き始めていた。

「ちょ、待って下さい、牙流検事。」
 そう呼びかければ、振り返りざまに睨まれる。苗字+役職名での呼びかけも、今の彼には気に入らないらしい。拗ねだしたら、思春期の青少年も裸足で逃げ出すひねくり具合だ。
「響也さん。」
 呼べばピタリと足が止まる素直さ加減にも恐れ入る。
「何、怒ってるんですか? 」
 そう問い掛ければ、正面に向き直った。わからないのなら教えてやるなんて、言いたくて仕方ないって言ってるのと同じだ。でも、自分だったら…そう王泥喜は思う。
きっと意地を張ったままで、決して相手の言葉など聞かないだろう。
 モヤモヤした気持ちのまま家に戻り、相手と向き合う事などしない。
 
「本人を目の前にして、看板を凝視するなんていい度胸だな、王泥喜法介。」
 
 …違う人間だって言うだけの事はある。自分自身に嫉妬かよ。

「あの、響也さ「違わないだろ」」
 とにかく、交差点のど真ん中。今は歩行者用の信号機が青いランプを点灯させているかから此処にいられるのであって、すぐに点滅を始めてしまうはずだ。通行人達だって足早に横を通り過ぎていく。
 こんな場所での喧嘩はいくらなんでも拙いだろうと、響也の腕を掴んだ王泥喜にそう言葉は振って来た。

違わない?何が?

「僕が、君を目の前にして君の写真…たとえばアルバムを夢中になって見ていたら、気分が良くなるものかい?」
「え? ど、どうですか?」
 唐突に振られた話題に頭がついていかない。おまけに、信号機が変わると警告する音楽が鳴り始める。確か1フレーズ流しきったら車が進入してきてしまう。
「僕は、気分が悪いよ。」
「…。」
「おデコくんに無視されているの、最悪だ。」
 本当に、不機嫌な表情を隠そうともせずに、真っ直ぐに向けてくる響也の姿。
きっと出会った頃なら、なんだこいつと思ったはずだし、事実そう感じていた。愚痴っぽい奴だとか、口喧しいとかそんな風にしか感じとれなかった。
 元々感情をぶっつけられるのは苦手だったと王泥喜は思う。
 優しさだろうと嫌悪だろうと、どうして他人の勝手な感情に振り回されなけれならないのだろうと思っていた。距離をおいて於けば揉め事にだってならないし、実際不和になった時、それに対して確かな言い訳だって手に入る。我が身を削ってまで、他人と係わる奴の気が知れない。そんな風に思った時もあった。それが間違っているとは思わないし、大概の人間は多かれ少なかれそう思っているに違いない。
 なのに、自分よりも遥かに摩擦の多い境遇にあるくせに、この男は怯む事なく気持ちを伝えてくる。
 鬱陶しくて面倒くさくて、だからこそ俺はこの男と上っ面だけの仲良しごっこをする気になれなかった。




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